第4回Nuclear Abolition Dayを開催(2013年6月9日)

今年で4回目となる「核兵器廃絶国際行動デー」が、核戦争を防止する石川医師の会とNPO法人『はだしのゲン』をひろめる会の共催で開催されました。

「核兵器廃絶国際行動デー」は2010年に国連で開催されたNPT(核拡散防止条約)再検討会議直後に、核兵器廃絶をめざす国際キャンペーン「ICAN」の呼びかけで全世界的に始まった取り組み。今回は毎年恒例の「白衣の街頭キャンペーン」から始まり、石川反核医師の会第26回総会、映画『はだしのゲンが見たヒロシマ』の上映会、アーサー・ビナード講演会が催され、県内外から320人(上映会には305人)が参加し、石川で開催する核兵器廃絶国際行動デーとしては過去最多の参加者数となりました。 

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(以下に、会員による参加報告を紹介します)

◆白衣の街頭キャンペーン

2013年6月9日(日)、香林坊大和バス停前にて、10時50分より白崎良明先生(核戦争を防止する石川医師の会代表世話人)の呼びかけで、「核兵器全面禁止アピール」署名運動が開始された。毎年恒例の白衣を着ての街頭キャンペーンである。40分という短い時間であったが60筆の署名が集まった。この署名は秋まで継続し、10月を目途に国連総会に提出される。

12時からは金沢市文化ホールに場所を移して、石川反核医師の会第26回総会が開催され、次のようなアピール案が採択された。①核兵器なき世界をめざし、地域の中でのICAN運動を一層推し進めること。②福島原発事故がもたらす放射能障害の危険性を訴えて、原発に頼らない安心できる社会を実現すること。

ICAN運動は「私にもできる反核運動」の合い言葉である。

◆ドキュメンタリー映画『はだしのゲンが見たヒロシマ

市民公開企画の開催に先立ち、開会挨拶に立った浅妻南海江さん(『はだしのゲン』をひろめる会理事長)は、被爆者の体験を受け継ぐものとして、『はだしのゲン』が全世界的に平和教育の教材として広まりつつある状況を報告した。

 続いて上映された『はだしのゲンが見たヒロシマ』は、『はだしのゲン』の作者・中沢啓治さんのインタビュー映画である。映画の中で中沢さんは、ゲンのモデルは自分そのものであると語った。ゲンは爆心地で奇跡的に生き延びた。夫、娘、末の息子を目の前で失った母は自失状態のなかゲンと再会を果たした。ゲンはいじめに遭いながらも、陽気に育ち父親譲りの絵心を慰めにした。もし、母の必死の庇護がなければ、多くの孤児がそうであったように、ゲンは冬の駅前で凍死するしかなかっただろう。

ゲンはまっすぐに伸びる麦。冬に萌芽し、踏まれても踏まれてもまっすぐ伸びる。「元気」のゲン、「元素」のゲンであると語った中沢さんの笑顔が印象的であった。

 中沢さんは手塚マンガに憧れ、後に母を残して上京したが、そこで被爆者に対する差別を知ることとなった。当時、放射能は伝染病のようにうつると思われていた。中沢さんは原爆を落としたアメリカが憎かった。また、究明がなされないままの戦争責任を糾弾したかった。しかし、原爆をマンガのテ-マとした途端、どれだけ被爆の実相を薄めて表現しても、読者には恐ろしいもの、受け入れがたいものとして大手出版社には掲載を断わられ続けた。しかし、成人向けの本の出版社からではあったが、入市被曝で死亡する女性がテ-マの『黒い雨にうたれて』が出版され、皮肉にも世に認められるに至り、「週刊少年ジャンプ」での長期連載への道が開かれた。

今年は『はだしのゲン』の「週刊少年ジャンプ」連載開始から40年という記念の年。それを目前にした昨年12月19日、中沢さんは73歳の生涯を閉じた。

 ◆アーサー・ビナード講演会

「炉は続くよ どこまでも?―広島文化賞を受章したアメリカ人が、核の本質と日本のこれからを、あざやかに語る。」

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映画上映後は、ア-サ-・ビナ-ドさんによる講演を間近で聞くことができた。アメリカ人であり、ヒロシマ人でもあるビナ-ドさんは言語学が専門で、詩人。

ビナ-ドさんはアメリカにいるときから、終戦直前に二個の原子爆弾を、しかも短期間に落としたマンハッタン計画そのものに疑問を抱いていた。本当に戦争を早期終結させるためならば、理論上、長崎に落とす必要はなかっただろうし、全国の都市に「パンプキン爆弾」などという模擬爆弾を落とす必要もなかった。そして、原爆投下は戦時下であったにせよ、明らかに軍人以外の市民の大量殺戮を目的としており、米国国内法に照らしても明白な違法行為であった。アメリカの真の目的は、プルトニウム型爆縮爆弾の完成と戦後世界の支配権掌握にあった。

「言葉」は成り立ちと視点によって表現が変わる。ヒロシマに来て広島平和記念資料館を数知れず訪問し、「かたりべ」の話を傾聴するうちに、被爆体験者が語る「ピカ」あるいは「ピカドン」に違いがあることを知った。「ピカ」と表現する人は爆裂した衝撃波が伝播する音波より速く到達した爆心に近いところで被爆した人で、「ピカドン」は若干爆心より離れた場所で爆風より爆発音が先に届いた被爆者の表現であるという。この生き生きとしたオノマトペ(擬態語)は、ヒロシマを知るはずもない3日後の長崎でも同様に「ピカ」あるいは「ピカドン」と呼ばれた。

プルトニウム型原爆の原料プルトニウムは原子炉によってのみ生成される。日本語の原子炉の「炉」という意味の英語は存在しない。アメリカでは当時原子炉はpileと呼ばれた。すなわち、核開発のために、核反応生成物であるプルトニウムを取り出し蓄積する装置で、発電は単に発生した熱を副次的に利用しているにすぎないと普通に理解されている。日本に原発が導入された真の目的は不明であるが、原子力は被爆国日本では敏感で受け入れがたい問題であった。そこで、原子炉(または原子鑪)の「炉」の文字を用いた。当時の日本は鉄鋼業の繁栄により、まさに高度成長を遂げつつあり、溶鉱炉の「炉」あるいは家庭の「鑪」(ろ=いろり)はともに心温まるもので、人々は原子炉にネガティブなイメ-ジを持ち得なかった。

「核の下における平和」、「原子力の平和利用」などという言葉がまかり通るならば、平和という言葉は力を失い、真の平和から遠のく。為政者による宣伝用のだまし文句を受け入れてはならない。本当の民衆の言葉を取り返さなくてはいけない。平和記念資料館は「ピカドン資料館」と命名すべきであると語った。

金沢市文化ホ-ルに集った320人は皆、本当の平和を取り戻そうと心に誓ったはずである。

ビナード

講演会終了後のサイン会にて。ビナードさんの後ろにあるのはたくさんの平和へのメッセージが刺しゅうされた「折鶴フレンドシップキルト」

 

はだしのゲン50周年

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